続・ふたりっ子の世界は実現するか: ルール設計の試み

前エントリーを巡ってコメント欄等でいくつかの貴重なご意見をいただくとともに、渡辺竜王のブログ(http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/23947db7a406ca346f0eb64747ad9922)からは、こんなフィードバックをいただいた。

梅田望夫さんも下記の記事を書かれています。

  • 里見さんの女流名人位獲得に思う。ふたりっ子の世界は実現するか。(梅田望夫のModernShogiダイアリー)

女流棋界制覇を目指す中で力を付けて、対男性棋士の勝率も上がり、気付けば6割5分というのが理想的な展開でしょうか。里見さんはまだ女流棋士の中で飛び抜けたわけではありませんが、年齢を考えるとこれに最も近い存在、と期待されるのも当然と言えます。今春には高校を卒業して将棋に接する時間が増えるでしょうから、どこまで強くなってくれるのか、楽しみですね。

現在のルールの問題点は、そのルール記述の曖昧さゆえに(本来アマチュア強豪のために用意した制度に「女流棋士も同じように適用できる」としたために曖昧?)、渡辺竜王の言うような「女流棋界制覇を目指す中で力を付けて、対男性棋士の勝率も上がり、気付けば6割5分というのが理想的な展開」と仮になったときに、里見さんが同時にその後も続けて女流棋界で活躍できるのかが明記されていない点だろう。
フリークラス入りしたらただちに女流棋士であることを放棄しなければならないというルールなのであれば、センプレ・アタッコさんの「(おそらく)女流棋戦が指せなくなる代償を払ってまでフリークラスに編入するメリットはあるのか?」という指摘は的を射ている。
また、そのあたりの曖昧さを早い時期に払拭しておいたほうが良いのではないかというコメント群には、私も共感する。そこでちょっと考えてみた。
以下のようなルール設計をするのは、どんなものだろうか。

女流棋士がフリークラス編入試験受験資格を得て、さらに編入試験に合格した場合には、女流棋士としての活動を続ける自由は担保しつつ、フリークラス棋士に与えられる権利が付与される。

フリークラス棋士に与えられる権利は、具体的には、

  • 順位戦を除く公式戦各棋戦へフリークラス棋士として(女流棋士枠からではなく)参加する権利
  • 公式戦での勝率如何で瀬川さんのように順位戦C級2組に上がれる権利
  • 各棋戦である期に活躍して得られるシード権やリーグ戦に残る権利(詳しくは知らないが、アマチュア女流棋士は公式戦のある期にある程度活躍して次期シード権やリーグ残留を決めても、次の期は再びアマチュア枠または女流枠でいちばん下から戦わなければならないというのが現状ではなかったかと思う)

が与えられるとするのである。どんなものでしょうね。
現時点で女流棋士奨励会入りした場合、女流棋士としての活動を休まなければならないというルールがある。これは「奨励会員との間の不平等の是正」というのが理由だったように記憶している。しかし編入試験はアマチュア強豪(奨励会経験者)にも開かれたものだし、それに合格した場合は「一つの別の職業としての女流棋士」との両立をはかるのは自由、というのは一つの落とし所ではないかと思われる。厳密に論理を詰めていったときに、このルールでは「女流棋士からプロ棋士へというルート」が、プロになるための他のルート(奨励会、アマチュアから編入試験)に比べて少し甘いという意見も出るかもしれない。しかしそこは、将棋普及のために歴史の浅い女流棋界というフロンティアを開拓して発展させることも含めての施策だ、と考えればよいのではないか。
忌憚なきご意見をいただければと思います。

追記。本エントリーについての渡辺竜王のご意見。
http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/4437a458be0ba326871dcf4bac9e814a

里見さんの女流名人位獲得に思う。ふたりっ子の世界は実現するか。

里見香奈さんが圧倒的な強さを示し、三連勝で清水さんから女流名人位を奪い、弱冠17歳にして女流二冠となった。過去にも十代の女流タイトルホルダーは何人も存在したが、どうも里見さんはそういう過去のトップ女流棋士よりもうんと強くなり、いずれは男性プロ棋士と伍していける「ファン待望の逸材」なのではないか、という認識や期待が将棋界に広がりはじめている。若手プロ棋士やアマ強豪の方々でそういう認識を語る人も多い。
まさに「ふたりっ子」のお香である。「香車のお香」こと野田香子は奨励会に入って、女性初の正式のプロ棋士になった。しかし里見さんのこれまでの言動からみて、女流棋士としての活動を休止して奨励会へ・・・という道は考えていないようである。そうか、ならば連盟も何か制度やルールを考えなければならないのかなあと思っていたら、昨日TarumiさんからTwitter上で、女流棋士のフリークラス編入試験の条件について教えていただいた。

フリークラス編入試験(Wikipediaより)


受験資格

編入試験

  • 四段の棋士5人(棋士番号の大きい順/過去2年間の奨励会卒業者の場合が多い)と対局が行われる。この対局に3勝以上すればフリークラスの四段として編入されることになる。

瀬川さんがプロ棋士になったときに導入された制度に女流棋士の記載もあるのだった。
以下、里見さんが「フリークラス編入試験」を経て女性初の正式のプロ棋士になることのリアリティについてシミュレーションしてみたい。以下の内容に誤りがあれば、ぜひコメント欄等でご指摘いただきたいと思う。
「公式戦で、プロ棋士相手に対局し、良いところ取りで10勝以上し、その間の勝率が6割5分以上」という条件がどうクリアされるかである。
まずはこれまでの里見さんの対プロ棋士の成績を見てみよう。
●糸谷、○稲葉、●金井、●糸谷、●遠山、●伊藤博、●島本、○吉田
の2勝6敗である(将棋世界誌上で○村山であるがこれは非公式戦)が、「良いところ取り」でよいということは、過去の6敗は無視して、対吉田戦の一勝から数えていけばよいということである。つまり最短ではこれから9勝5敗でいけば、当人が望めば「フリークラス編入試験」を受けることができるということになる。
いま公式戦での女流参加枠は、

である。いま調べていてわかったのだが、アマチュアよりはずいぶんチャンスが大きい。女流第一人者として女流タイトルの過半を維持すれば、名人戦王将戦以外のほぼすべての公式戦に参加できるチャンスがもう開かれている。
2010年度についていえば、朝日杯は夏の予選から参加、竜王戦は敗退(●島本)したが来期も参加、王位戦は今期は清水・石橋が参加したが来期は参加できるだろう。王座戦は敗退(●遠山)したが来期も参加、棋聖戦は今期は清水・矢内が参加したが来期は参加できるだろう。銀河戦は今期は清水・矢内が参加したが来期は参加できるだろう。直近の「○吉田」は新人王戦であり、次は順当にいけば豊島五段とあたる。棋王戦の枠は女流名人と決まっているので来期は参加できる。NHK杯戦は女流同士が予選を行って一人が出場するものだったように記憶しているので勝ちさえすれば参加できる。うち早指し戦が、朝日杯、銀河戦NHK杯戦である。瀬川さんが「フリークラス編入試験」に臨むまでの実績を出した主たる活躍の場は、早指しのテレビ棋戦である銀河戦だった。
結論としては、勝てば次々に対局がつく銀河戦で、瀬川さんのように何人抜きといった衆目認める活躍をしてどんどん白星を集めていき、朝日杯とNHK杯戦のいずれかで三勝くらいし、その他の棋戦では最低1勝はする、というくらいの組み合わせで、「フリークラス編入試験」受験資格が得られるのではないかと思う。
いま17歳の里見さんが、20歳までにはこのくらいの活躍をしてそこに到達するのではないか。奨励会に入って三段リーグを戦わなくても、女流棋士として大活躍し、その活躍に対して与えられるチャンスを十全に活かすことで、到達可能な目標と思う。
私はそんなふうに予想するのだが、皆さんは果たしてどうだろうか。

追記。「以下の内容に誤りがあれば、ぜひコメント欄等でご指摘いただきたいと思う」と記したが、http://attacco.blog.eonet.jp/default/2010/02/post-5f61.html からご指摘がありました。

ただ私は、記事に書かれているように、女流のトップにさえ立てれば
順位戦王将戦以外のすべて(トップ棋士が選抜されるものを除く)の
公式戦に参加できるチャンスがある状況であり、
当然ながらフリークラスでは順位戦が指せないわけで、
(おそらく)女流棋戦が指せなくなる代償を払ってまで
フリークラスに編入するメリットはあるのか?と思います。
あと、細かいところですが、
王位戦の女流枠は女流王位戦五番勝負出場者と決まっているので、
里見さんが来期に王位戦に出場することはありません。
また、女流王将戦のタイトル賞金額が2番目の高額になる?という話もあり、
そうなると相対的に女流名人の序列が下がる可能性があるため
棋聖戦銀河戦の出場枠もどうなるかという状況。
そして、新人王戦の女流枠は正しくは4名(26歳以下)です。

謹賀新年。Shogi as a National Pastime!

謹賀新年。あけましておめでとうございます。
00年代の最後は、思いがけない幸福な出来事の連鎖によって、将棋に深く関わる2年間を過ごすことができました。この流れのまま、2010年代に突入したいと思っています。
今年もどうぞよろしくお願いします。
この2年間、将棋に関わり、棋士の方々との交流を通してずっと考えていたことは、将棋が日本人にとっての「National Pastime」の一つになれば・・・、ということでした。
「National Pastime」という言葉は、アメリカで野球についてよく語られる言葉ですが、その言葉の本当の意味を理解したのは、2001年9月11日の米中枢同時テロの直後でした。
テロが起きてまもなく、テレビのコマーシャルはいっさい流れなくなり、空港はすべて封鎖されて飛行機が飛ばなくなり、株式市場も閉鎖されました。メジャーリーグの試合も当然のことながらすべて中止になりました。飛行機を飛ばすことや株式市場を開くことは、経済に直結する最優先事項ゆえ早々に復活するだろうけれど、メジャーリーグはどうなのだろう。ひそやかにですが、多くの野球ファンが不安を抱いていました。球場はアメリカを象徴する場所で、しかも人がたくさん集まるゆえに格好のテロの標的になる。テロの時期は9月中旬で、もうシーズンも大詰めの時期でしたから、面倒を回避することを優先するのなら「今季の野球はここで終了」ということになっても、ぜんぜんおかしくなかった。9月12日から14日くらいまでのアメリカの雰囲気はそんなふうでした。
でもわずか一週間の空白で、メジャーリーグの球音はスタジアムに戻ってきました。各地で行われた再開のセレモニーには「National Pastime」という言葉が溢れていました。どんなに厳しい環境にあっても、それがあるから私たちは生きてゆける。4月から10月までのシーズン中は、仕事が終われば毎日見ることができ、11月から2月までのシーズンオフの間は、来シーズンのことを読み、語りながら春を待ち、3月には一足早く春になったアリゾナとフロリダでのSpring Trainingを観察しながらシーズン開幕を待つ。それが「Baseball as a National Pastime」なのだ。だからいちばん厳しい時代たる今、メジャーリーグは何よりも先に再開されねばならない。そんな関係者の情熱を、ファンが熱狂的に支持していたのが印象的でした。
この2年間、将棋界の流れとシンクロしながら暮らしてみて、気づいたら、x月y日と言われると、だいたいそのときに将棋の世界で何が行われているのかが、瞬時に頭に浮かぶようになりました。たとえば6月25日と言われれば、名人戦がちょうど終って順位戦が始まる頃で、棋聖戦の第三局くらいが行われていて、そろそろ王位戦の挑戦者が決まった頃かなあとか。11月15日と言われれば、竜王戦第三局の前後で、王将リーグが始まり、棋王戦挑戦者決定トーナメントがたけなわになっている頃かなあ、とか・・・・。それで改めて気付いたのは、将棋は本当に一年中、大きな試合が切れ目なく行われている、ということ。
将棋のタイトル戦は日本全国(ときに海外)をまわりながら、日本の四季とも深く関わりあいながら、シーズンオフもほとんどなく一年中行われています。一月から三月までじっくりと二日制の王将戦。二月、三月は主に雪の北陸での棋王戦(今年の第一局は上海)。三月初旬には「いちばん長い日・A級順位戦の最終戦」がある。そして桜の季節とともに名人戦が始まって、六月からは棋聖戦、夏の盛りの三カ月をかけて二日制の王位戦の文字通りあつい戦いが繰り広げられます。そして秋の始まりとともに王座戦が開幕し、十月から十二月にかけて竜王戦で締める。
将棋は一年を通して、見せ方の工夫さえきちんとしていけば、ほとんど毎日、「それがあるから生きてゆける」という「National Pastime」を人々に届ける存在になれる。将棋とは、日本人にとっての、そういう可能性を持ったひとつである、と強く思うようになりました。
アメリカに住んでいるので日々の将棋との接点のほとんどはネット中継の観戦ですが、日本に住んでいた頃からの夢だったタイトル戦の観戦は、いま日本に行く楽しみの一つです。
2008年は、本にも書いたように、六月の新潟(棋聖戦)、七月の豊田市(王位戦)、十月のパリ(竜王戦)に行きましたが、2009年も引き続き日本出張中の仕事の合間を縫って、

を観に行きました(5月の名人戦と11月の竜王戦は、残念ながら調整できずで行けず)。
2010年は、王将戦第一局二日目が土曜日なので、徳島県鳴門市大塚美術館での羽生久保戦の公開対局から観に行こうと思っています。
2010年代が、将棋界にとって、そして将棋ファンの皆様にとって、素晴らしい「次の10年」でありますように。

朝日杯の「対局場からのリアルタイム中継」という仕組みの効果

「ものぐさ将棋観戦ブログ」が早速、「朝日杯 木村vs佐藤和俊 ー 名局と名実況」
http://blog.livedoor.jp/shogitygoo/archives/51604365.html
というエントリーを上げて、中継担当の銀杏記者を称賛している。まったく同感。素晴らしい対局と素晴らしい実況だったと思う。
昨今のネット中継の充実を支えている「縁の下の力持ち」は、烏記者、銀杏記者をはじめ、将棋ネット中継の可能性を信じ情熱を傾けて仕事を続けるスタッフたちに拠るところが大きい。
ところでネット中継はふつう、タイトル戦も順位戦も、控室からの実況になる。控室には解説役の棋士、勉強のために訪れた棋士たちがたくさんいて、対局の検討が続けられている。中継担当スタッフは、その様子を観察したり、棋士に「取材」したりしながら、一局のありさまをリアルタイムで報じていくわけだ。あくまでも「報じる」立場。「縁の下の力持ち」と書いたのはそういう意味だ。
しかし朝日杯は、対局場に中継スタッフがパソコンを持ち込みネットにつなぎ、記録係と並んで対局を現場で眺めながら実況するシステムを取っている唯一の棋戦だ。たとえば、烏記者も銀杏記者も大変な棋力の持ち主だから、一人で対局を見ながら、誰に相談することもなく、指し手の意味を解説できる。そういう高い能力と、目の前で起きていることをリアルタイムでたくさん書いて伝えたいという熱意があわさって、素晴らしい実況が生まれたわけだ。
しかし木村佐藤戦の実況を観ていて改めて、ああこれは「棋士たちがいる控室に居ないゆえの自由」の産物なのかもしれないなあ、朝日杯の「対局場からのリアルタイム中継」という仕組みの効果がイノベーションを生んだとも言えるなあ、と思った。棋士たちへの敬意ゆえの遠慮が、「密室からリアルタイムで報じるのは自分一人だけなんだ」というこの仕組みによって解き放たれて、実況者の個が輝いたのだろう。
朝日杯の仕組みは、これからの将棋界にとっての重要な実験になっているようだ。

金子金五郎語録(12) : 金子の加藤一二三論(1)

ものぐさ将棋観戦ブログ「金子金五郎加藤一二三分析」で本ブログの前エントリーを取り上げていただいた。
http://blog.livedoor.jp/shogitygoo/archives/51602813.html
さらにTwitter上のやり取りで、

ブログでも書きましたが、現在の加藤先生の姿をまるで予見するかのような金子金五郎の本質洞察力には驚かされました。昔の棋士の話でなく我々がよく知っている棋士の話だけに、すごく説得力があります。
http://twitter.com/shogitygoo/status/6891806982

とあった。確かに「昔の棋士の話でなく我々がよく知っている棋士」の若き日の姿を、金子金五郎がいったいどう描いていたか。それをきちんと読んでいくことで、金子将棋批評の凄みはさらに正確に理解されるのだろう。ものぐささんにそう教えられたので、これからしばらくそんな観点で金子語録を紹介していきたい。
まずは昭和31年(1956年)、今から53年前に、初めて金子が、加藤一二三少年の16歳のときの姿を描いた文章「天才少年の敗局」から。

筆者のみた範囲では加藤の本領は中終盤の乱戦にある。手数が長く中盤の攻防の起伏の波が乱調子となったときくずれない、いわゆる息の長く続くマラソン型である。しかし、大山名人のごとく、精密機械的に細かく動く強さではなく、いつも大上段にふりかぶっている。それでいてくずれぬ緩急の妙をおのずと得ているからたしかに天才である。(「近代将棋」第七巻十一号(昭和31年11月号)

加藤少年にばくぜんと感じるものは駒組―序盤について升田式の近代神経がないのではないかということである。これはある人からまだ少年で経験がないから無理な酷評をするなと叱られるかもしれないし、筆者もしっかりしたことはいえない。だが、序盤技術というものでも中終盤と同じく必ずしも、経験や研究のみで得られるのでなく、先天的なカンというものがむしろ基礎になっているというのが筆者の主張である。この仮説に立ってみると加藤がA級に入った場合、ねらわれるのは序盤であるといえそうな気がする。(同)

ものぐささんが

現代の読者は、金子が加藤一二三の本質を実に誤ることなく的確に射抜いていることに驚きを禁じずにはいられないのではないだろうか。

と感想を述べた対象となった文章(http://d.hatena.ne.jp/modernshogi/20091214/1260841802)は、昭和34年、19歳の加藤からその本質をえぐりだしたものだが、ここで紹介した「天才少年の敗局」は、それからさらに3年さかのぼった16歳の加藤を描いたものだ。
そしてこの次号で、加藤一二三六段対大山名人戦の観戦記「名人と天才少年」を書いている。

横綱と幕内中堅の取組で順当に行けば名人の優勢は動かぬところだが、一番勝負は精神的な面が大きく響くだけに恐れと懐疑を知らぬ加藤の捨身戦法はあなどれない。
しかし、加藤のアナは序盤にある――と前号で筆者は診断したが、ここでもこの前提に立って対大山戦を予測すると――

  • (1) 序盤は経験豊かな名人に有利。
  • (2) 微細な序盤の不利を加藤は例の短打戦法に出るから名人も決定打を振う時機がなく、加藤の短打戦に応酬する期間が長い。
  • (3) この中盤戦から漸次終盤に入るが加藤は多くの敵手の予測されぬ奇手の連発で棋勢挽回、乃至一打逆転で成功しているが対手が精密機械といわれる名人だけに加藤の武器がかえって破綻を大きくすることさえ考えられる。

以上の点から加藤独自の強味が名人の棋風には通じにくいという結論が出てくる。(「近代将棋」第七巻十二号(昭和31年12月号))

16歳の加藤の姿から金子は、未来の大山加藤戦の在りようまでを正確に読み取ってしまっていたのだろうか。
そしてその一年後、17歳の加藤一二三について金子はこう書いている。

五年前に見当たらなかった大山・升田時代に迫る棋士が今、現実に「加藤一二三七段」となって来ている。正直なところ加藤君の戦績抜群にもかかわらず筆者はまだ同君の真価がはっきり分っていない。その理由は、加藤君の勝ち方が「力の強さ」を証明はするが、合理的な勝ち方をしてないことが、たまたまあるという一事につきる。
升田を負かすには加藤君の序盤が良くならなければならないように思える。だから加藤君が升田に対抗するのは同君の経験と、その時代の各棋士の指し方を集成した結論を借用でき、升田にそれを超える新手の創造の生命力涸れはじめた時期ではないかと思う。この想像は加藤(一)君が中盤終盤の新感覚的な棋力があるいは升田を越して行くものがあるのぢゃないかという意味なのである。(「近代将棋」第八巻十号(昭和32年10月号))

一二三の将棋は率直簡明で複雑な組立て方に精力を投入しない。(中略) とにかくさばき、アトは対手の出方次第という態度で、この将棋に限らず大体いつも共通している指し方で、これで勝っているのは中盤以後に対手の予想しない飛躍した手がとびだすからであろう。(同)

卒直大胆につっこむうちにみずから飛躍手を招来する一二三の将棋を理論的にどう解明したらいいだろうか。(同)

17歳の加藤一二三の将棋を理論的に解明しようとする金子の真摯な思考の結果が、前エントリーで紹介した、その2年後の文章になったわけだ。

加藤(一)の棋風をみると近代将棋といわれた木村、花田や筆者達が共通に持つ将棋観をずっと昔に飛び越えた古典に属する指し口が感じられてならない。升田も三代宗看の棋風が好きだといっていたが、加藤(一)君には伊藤印達(詰将棋の煙り詰の作者看寿の兄)を思わせるものがある。筆者はいつか本誌で加藤君の穴は序盤の感覚がすこしわるいところにあるという批評をしたが、このことは、「古典に流れている思想――将棋観――が先天的に加藤にあって、それが細密な分析に基礎を置く今の将棋を知ることを妨げているのだ」といえないだろうか。

つまり加藤(一)にある個性が強くて今の将棋を受け入れることを排除してしまうということである。しかし、この排除作用を受け入れようとする個性的な努力でもあるかもしれない。(一)君は今、その闘いをしつつあるのだと思う。(「近代将棋」第十巻十二号(昭和34年12月号))

またその前号で、19歳の加藤を"達人"と評し、その陽性についてもこう記述している。

すこしほめすぎのようだが、加藤君の対局ぶりをみていると"達人"という感じに近いものをうける。考えているときでも苦しんでいる様子もなく、また、自分の着想を妙に気負う風もない。真面目(まじめ)でいながら、よそ行きも普段着もない態度で一貫している。こういうと大山名人に似ているように思うだろうが、大山には何か一種のくせが底にひそんでいて、それが強味を構成しているように思える。これに比して加藤は陽性であり、表口から名乗りをあげている将棋であり、対局態度もそうだ。(「近代将棋」第十巻十一号(昭和34年11月号))

ちょうど50年前に書かれた19歳の加藤についてのこの文章から、人間のすべては若き日にすでにすべて顕れていて、見る人にはそれが見えるのだ、ということを思う。

金子金五郎語録(14) : 金子の谷川浩司論

1902年生まれの金子金五郎と1962年生まれの谷川浩司は、60歳、年が違う。
晩年の金子が最後に評した大棋士谷川浩司であった。
谷川が21歳で史上最年少名人になった年、80歳を過ぎた金子は、谷川が名人を奪取する直前に「谷川将棋を考える」という文章を、奪取直後に「谷川将棋について」という文章を、近代将棋誌に寄せている。
最初の文章は、米長邦雄の将棋を補助線に谷川の力感について語る名文だ。

中原の後につづいてA級入りした棋士に米長があるが、その将棋ぶりは技術史的にみると加藤、中原にみられるような合理性が少なく実戦的である。好んで氏が用いる言葉に将棋の流れというのがある。流れとは実戦に生じたところの必然性を指すものと思うが「流れが変る」と表現したとき、必然性が止って異なる方向に局面が流れはじめたことであろう。つまり新しい必然性ということにちがいない。その必然性から必然性へと移行せんとする底流のようなところを見すえて米長は指し手をすすめているのかも知れない。だから構成者としては米長は傍流に位置するものであろう。氏の天性的ともいうべき力感的な将棋は構成者を牽制することに役立ち、それが自然に技術史をつくり出す重要な役目を果たす結果をもたらしている。

谷川の将棋にもっとも感じるものは力感的ということであるが、米長のそれは人としての性格的なニオイを感じるが、谷川のは人間的な性格からきたものとは思えない。では何が力感的たらしめているのか。もちろん私にはわからない。わからないが、カンで言わせてもらえば、この人は将棋そのものが持つ攻撃性に直結しているところからの力感であると言いたい。普通攻めとか守りとかはそう意識した結果から生じる。しかるに谷川のはその意識が生じる以前のところに立っていて、将棋そのものの攻撃性をキャッチし、そこから攻めるという意識が生じるという風に思えるのである。(「近代将棋」第三十四巻六号(昭和58年6月号) 「谷川将棋を考える」)

そして二つ目の文章は、おそろしいことに、現代将棋と谷川浩司の関係を、26年前の昭和58年(1983年)に、21歳の谷川を見て予見しているようにも読めるのだ。

谷川の自己表示のしかたは近代いよいよ科学的に精緻になる序盤からの拘束を受けることをきらう、といってもそれを意識してはいないだろう。この人には天才的な盤面感覚があり、それは思考という操作を越える。この感覚力が、自己表示の原動力となって、本能的に序盤の拘束をきらう。天才とはもともとそういうものかも知れない。
この原動力の強さには強烈さがある。それが荒いタッチとなって棋譜の上に表われているもののようである。
しかし序盤の科学性は情報化して、棋士全体のものになりつつある。谷川といえどもこれを無視することは出来ない。特に以前とは違い相手が名人級ともなると余計そうである。さらにまた、そこに谷川の未来が残されているとも考えられるのである。それに谷川は対抗しつつそうした科学性に谷川が挑戦しつつこれからも強くなっていくであろう。(「近代将棋」第三十四巻十号(昭和58年10月号) 「谷川将棋について」)

金子金五郎語録(13) : 金子の加藤一二三論(2)

18歳でA級八段になった加藤一二三は、昭和35年(前々エントリーで紹介した文章の半年後)、20歳のときに大山名人に初挑戦し、その第一局に勝っている。
その将棋の観戦記「名人戦第一局 加藤八段の先勝」で、金子はこんなふうに書いている。

大山名人も加藤(一)八段も"積み重ね型"の棋風であるといわれている。
積み重ね型とは、初めの出方には大きな収穫はねらわないで、堅実に進め――ということは"負けない指し方"に通じてくる――て行き、対手の出方を見届けつつ、その都度、自分の指し方に対応させる棋風のことである。
しかし、それは自分の打ち立てる構想がないということではなく、構想に決定的な収穫を期待しないということである。
したがって構想に要する指手の手数が短かいという傾向が多い。その代り、その構想が第一次、第二次、第三というように幾重に積まれた結果、勝機を見出そう(局勢の均こうを破ること)とする。筆者はこのことを"思考線を短かく済ませる"といっているが、読みに要する手数がすくなくて、ある単位(局面の山ということ)を構成している。これを別な言葉で現せば"機会主義"とか現実主義ということになるだろう。
将棋は対手の出方次第で勝つものという意味ではこの積み重ね型は正しいかもしれないが、これは将棋というものを外面から見た場合について言えることであって、指す人の心の中にある"勝とうとする意欲"というものを想うと、積み重ね方式(それは負けないように指すことに重点が置かれている)だけでは行動の第一歩(行動とは読みということである)が踏み出せないと思う。ある着手を選び出そうとするさいに、局面の客観性に基く手を見出そうとするばかりでなく、だれでもそこに勝とうとする希望を実現させる方向を発見しようとする主体的な態度が一様に流れている。
棋風という言葉があるが、それは「勝とうとする心」を土台にし、その上に各自の個性を盛られて出来上がったもののことであると思う。
さて、この前置きを手掛りにして、似ているといわれる名人と加藤(一)の積み重ね型にも個性のちがいを見出すことができる。加藤のは同じ積み重ねでありながら、第一の山から次の山に局面が移るとき、対手を斬り返えす切尖きが名人より鋭いものがある。(この場合の鋭いということと手が正しいということと同一の意味ではないことを断っておく) つまりこれは現実的だが主体性(勝とうとする現れ)が名人よりは強烈だということになるだろう。(「近代将棋」第十一巻六号(昭和35年6月号))

これは「近代将棋」での執筆だが、当時金子は新聞将棋欄の名人戦観戦記も担当していて、この七番勝負において、加藤について次のような言及がある。
第十九期名人戦第一局第二譜

升田が加藤の将棋のことを「彼の攻めは一気に切りこんだと思わせるうちに、実はその刀を手もとに引いて次の攻めに備え直すか、あるいは守りに変じるかの用意が隠されている」という意味のことを述べたという。これは氏一流の表現で、言葉をかえると「彼の一手には自然のうちに攻守両様の備えが同時的に統一されて存在している。すなわち心の中で攻守が"ふくみ"という既存のものとなっている」ということであると思う。そしてこれが棋譜として表現されたとき、形式の上では木村十四世が本紙で語ったように受け―攻め―受け―攻めの積み重ね式の型のように感じられてくる。が、分断的な積み重ね型の将棋には苦しみの表情をかくすことはできない。本来、積み重ね型の大山名人の将棋にも初期の時代にはこの分裂の跡があったと思う。それが円熟の境に達するに及んで、この裂け目がうまく統一されてきている。しかしどうしても練摩という人工的な跡がある。そしてこれは尊敬されるべくまた強味ともなっている。
加藤の将棋は形式の上で積み重ね型であっても、名人にみられるような裂け目を努力して統一しているという苦しみの表情を感じることができないで、何かスムーズに行なわれているようにうけとれる。これは先に述べた彼は「最初から幾重にも積み重ねられた断層を根に持っている将棋」なので次の異なる断層(局面の変ぼうということ)に入るに当たり、すでにそれを統一しているものとして受け取っているためと思う。

第四局第二譜

升田がまだ青年棋士と書かれたころ「自分は将棋創成期に流れている荒けずりな精神に魅力を感じる」といっていたが、筆者は早くから加藤一二三の将棋にもそのような荒けずりな強さというものを感じていた一人である。そしてこの見方は今でも変わらない。しかし加藤がA級にはいるとともに、序盤の芸が中終盤の荒業的なものとおよそ異った細かい将棋をみせるようになったと思う。だいたい序盤の研究をはじめると、中終盤は序盤の延長であるとする考え方が強くなってくるものである。だから、加藤が本来的に所有していた荒けずりな中終盤の性格が、序盤の科学的な考え方というものに影響され、変化することは進歩を意味する。が、変ぼうを遂げる間の過渡期においての動揺が忍び寄ってくることも考えられる。なぜ、このようなことを述べたかというと、こんどの名人戦の第三局で加藤が勝ち将棋を逸していることについて、何か上述のことと関係がありはしないかと、ふっと思ったからである。勝負というのは理外の理という原因があってきまることが相当に多い。ここでいう理外の理とは、表面に現われない精神面のことであるが、若い加藤にはまだ彼が本来持っている荒けずりな指し方を抑制していると、そこに精神的な不調和が訪れることがある。それが表面に出てきて第三局の敗因をなした、という想像である。

第四局第三譜

若きころの木村名人には時には稚気とも言える覇気があったが、それでいて相手の気を引きこむような一種の魔力があった。升田九段には相手を屈服させる強制力ともいうべき気迫が立ち昇っている。これに比べて今の加藤八段は青年の素直さの中に「ただ、われ将棋するのみ」といった、ドライな面があるように感じられる。昔流の「心」といったものを先に出さないのがこの世代の特色というものだろうか。

ちなみにこの七番勝負は、加藤先勝のあと大山四連勝で大山が名人位を防衛したが、防衛を決めた第五局の観戦記を作家・五味康祐が書き、勝った大山に対して「町人根性」という言葉を使ってこう評したことで今も語り継がれる、あの七番勝負である。

武士の情けという言葉があって、古来、日本人は散りぎわを尊重する。筋目のある試合なら必ず止めを刺す。きり捨てにして、とどめも刺してやらないのは、相手が町人ふぜいの如き場合に限る。つまり大山と指して負ける棋士は、大山に町人根性でいたぶられるわけにもなろう。(第五局第十二譜、五味康祐)