金子金五郎語録(14) : 金子の谷川浩司論

1902年生まれの金子金五郎と1962年生まれの谷川浩司は、60歳、年が違う。
晩年の金子が最後に評した大棋士谷川浩司であった。
谷川が21歳で史上最年少名人になった年、80歳を過ぎた金子は、谷川が名人を奪取する直前に「谷川将棋を考える」という文章を、奪取直後に「谷川将棋について」という文章を、近代将棋誌に寄せている。
最初の文章は、米長邦雄の将棋を補助線に谷川の力感について語る名文だ。

中原の後につづいてA級入りした棋士に米長があるが、その将棋ぶりは技術史的にみると加藤、中原にみられるような合理性が少なく実戦的である。好んで氏が用いる言葉に将棋の流れというのがある。流れとは実戦に生じたところの必然性を指すものと思うが「流れが変る」と表現したとき、必然性が止って異なる方向に局面が流れはじめたことであろう。つまり新しい必然性ということにちがいない。その必然性から必然性へと移行せんとする底流のようなところを見すえて米長は指し手をすすめているのかも知れない。だから構成者としては米長は傍流に位置するものであろう。氏の天性的ともいうべき力感的な将棋は構成者を牽制することに役立ち、それが自然に技術史をつくり出す重要な役目を果たす結果をもたらしている。

谷川の将棋にもっとも感じるものは力感的ということであるが、米長のそれは人としての性格的なニオイを感じるが、谷川のは人間的な性格からきたものとは思えない。では何が力感的たらしめているのか。もちろん私にはわからない。わからないが、カンで言わせてもらえば、この人は将棋そのものが持つ攻撃性に直結しているところからの力感であると言いたい。普通攻めとか守りとかはそう意識した結果から生じる。しかるに谷川のはその意識が生じる以前のところに立っていて、将棋そのものの攻撃性をキャッチし、そこから攻めるという意識が生じるという風に思えるのである。(「近代将棋」第三十四巻六号(昭和58年6月号) 「谷川将棋を考える」)

そして二つ目の文章は、おそろしいことに、現代将棋と谷川浩司の関係を、26年前の昭和58年(1983年)に、21歳の谷川を見て予見しているようにも読めるのだ。

谷川の自己表示のしかたは近代いよいよ科学的に精緻になる序盤からの拘束を受けることをきらう、といってもそれを意識してはいないだろう。この人には天才的な盤面感覚があり、それは思考という操作を越える。この感覚力が、自己表示の原動力となって、本能的に序盤の拘束をきらう。天才とはもともとそういうものかも知れない。
この原動力の強さには強烈さがある。それが荒いタッチとなって棋譜の上に表われているもののようである。
しかし序盤の科学性は情報化して、棋士全体のものになりつつある。谷川といえどもこれを無視することは出来ない。特に以前とは違い相手が名人級ともなると余計そうである。さらにまた、そこに谷川の未来が残されているとも考えられるのである。それに谷川は対抗しつつそうした科学性に谷川が挑戦しつつこれからも強くなっていくであろう。(「近代将棋」第三十四巻十号(昭和58年10月号) 「谷川将棋について」)