「変わりゆく現代将棋」連載とはどんな雰囲気のものだったか。

将棋観戦記からトラックバックをいただき、さきほど紹介したエントリーに追記がなされたことを知った。
遂に発売する「変わりゆく現代将棋 上下」(最後に追記有り)
この追記分を読むと、羽生さんがその二十代後半の三年半を費やした「変わりゆく現代将棋」という連載が、当時の読者にとってどんな雰囲気のものだったのかがとてもよくわかる。

天才というのは常に凡人の考えを上回り裏切り続ける。始まったのは例の77銀か66歩かという哲学的な問いだったのだ。正直に記せばあの連載が進むに連れて私の期待は失望に変わっていった。これは私にとって、アンドリューワイルズフェルマーの最終定理を証明するための重要な一部分を、(聴講者に対してはその目的を秘したまま)大学院の講義で数カ月にわたって行うのだが、最初はいた受講生が何をワイルズがやろうとしているのか分からなくなって聴講から脱落していき、最後は証明するのを手伝う別の教授とふたりだけの授業になっていくのだが、そのエピソードを思い出させるものだ

というのは、本当に言い得て妙である。また、

私の感想である「急戦の話が多い」というのは連載当時は全く意識していなかった(というか正直に記すとそのうち流し読みするようになった)ので、羽生善治が何をやっているのかさっぱり分からなかったのだった。
これは、言うなれば羽生善治という天才が独力でナスカの地上絵を製作する作業を地べたで、その脇で、リアルタイムで眺めていたというのが当時の状況だったのではないか。
そういう意味において、この「変わりゆく現代将棋」という本は、単なる定跡本ではない。羽生善治の頭の中にある「巨大な地上絵」の一部を観光するような経験を我々にもたらす本なのかもしれない。

というのも、ことに「羽生善治という天才が独力でナスカの地上絵を製作する作業を地べたで、その脇で、リアルタイムで眺めていたというのが当時の状況だった」とは、実にうまい表現だと思う。こういうものを読むと、将棋というものを巡って書かれるべき言葉が、まだまだそこかしこに眠っていることを感じる。
ここ二年ほど、ほとんど一人で「変わりゆく現代将棋」と格闘してきたので、本書が刊行されて、多くの読者の感想がウェブ上に溢れるのが、ますます楽しみになってきた。