金子金五郎語録(11) : 金子の将棋史観と升田幸三

昭和二十二年に升田の八段昇格が確定した時である。木村名人と「香平手」三番勝負が行われたが、まず二勝し余勢を駆ってまさかと思っていた三局目の平手番も鮮やかに勝った。

升田の将棋のスピードの前に木村の近代将棋はまったく役をしなかったのである。升田のダイナミックな荒わざ、機略(作戦智)、相手をしのぐ雄大な構想。これらの諸要素を一点に集中させる気迫に木村は圧倒された。

戦時中、南洋の孤島にあって木村との対決を夢にまで見たという闘魂がエネルギーになって沸騰したのである。この棋譜を並べて私は自分を恥じた。なぜ木村将棋の弱点を発見できなかったのか、と自分の怠慢に責任を感じた。が、同時に同じ道を行くものとして、升田という天才を迎えたことに感動した。このような経験は、いまだに長い棋士生活を通じてはじめてである。

この升田にも引退を声明する時がきて、私は自分の非力をかえりみる余裕のないままに「升田将棋の前に升田無し、升田の後に升田なし」と書いた(朝日新聞)が、私の気持ちでは升田将棋は今後みることができないであろうと思ったからである。これは将棋を芸道としてみた予感である。

英雄は時代の要請によって現れ、英雄もまたそれに答えてその事業を達成し、その時代が去れば自らも去るという。近代将棋がマンネリに陥ったので升田が現れたのである。歴史的にみれば、そういえるものが、たしかに升田将棋の中にある。説明せよといわれれば象徴的に創造者だからというよりない。(升田幸三選集第二巻 月報2 「創造者升田を語る」(昭和60年12月))

升田幸三は四段当時より木村打倒によってこの時代の将棋(木村、花田が代表する昭和初期の理論将棋)を否定もしくは飛躍せんと夢見ていた英雄児であった。彼の子どもっぽい名誉心は(四段の十八九才の時をいう)単なる木村打倒だったろう。が、天才の勘は恐ろしい。彼の棋眼は木村将棋は手緩く花田将棋に幅の狭さを勘付いていたに違いない。筆者が断言的にいうのは自身が五六段時代に八段の諸先輩の将棋に肯定しがたいものを感じ七段当時になって、はっきり技術的に実証した体験を持つからである。これは筆者は凡才であったが、ただ、次の時代をつくるという偶然的な位置に生れていた賜物であると思っている。(「近代将棋」第三巻六号(昭和26年6月号))

今期のA級番付けをみると、塚田、大野の二人は戦前派。升田は戦前派と戦中派の中間的な位置にある。戦中派は高島、丸田、それに加藤(博)という順になる。・・・・・
さて、こんなことを筆者が述べたのは、短い期間であるが、そこに将棋術の歴史の流れがみられるように思えるからである。升田を主役とした戦中派の棋士は戦後に於いて序盤というものを革命してしまった。戦前派の筆者達が敗れたのは思考力の衰えということより、将棋観が古くなったことが主因である。将棋を観る眼はつまり思想(将棋の)である。思想が根底にあって将棋を観る眼を動かすのであると思う。
ところで戦中派が戦前派を倒し得たのは戦前派を少年の頃から批判していた芽生えが時が来て実ったからである。この意味で戦中派は戦前派の将棋観を知り(体験して自分の所有となった意味)その種が植付いているということにもなる。そしてまた、それを変ぼうさせて新らしい将棋にした。そのときにあって現われたのが加藤一二三二上等の二十台の人々であるが、加藤(一)の棋風をみると近代将棋といわれた木村、花田や筆者達が共通に持つ将棋観をずっと昔に飛び越えた古典に属する指し口が感じられてならない。升田も三代宗看の棋風が好きだといっていたが、加藤(一)君には伊藤印達(詰将棋の煙り詰の作者看寿の兄)を思わせるものがある。筆者はいつか本誌で加藤君の穴は序盤の感覚がすこしわるいところにあるという批評をしたが、このことは、「古典に流れている思想――将棋観――が先天的に加藤にあって、それが細密な分析に基礎を置く今の将棋を知ることを妨げているのだ」といえないだろうか。
つまり加藤(一)にある個性が強くて今の将棋を受け入れることを排除してしまうということである。しかし、この排除作用を受け入れようとする個性的な努力でもあるかもしれない。(一)君は今、その闘いをしつつあるのだと思う。(「近代将棋」第十巻十二号(昭和34年12月))

天才の出現は歴史の展開を示す例として、私達は升田を見ている。升田以前の昭和前期は会所将棋の域を出なかった乱雑な明治将棋を整理し、序盤に体系を中盤に「考え方」と「法則」を発見した時代である。しかし将棋に最も必要な「速度」を取り入れることが出来なかった。速度を主とする代表選手の花田八段(塚田九段の師)が「考え方」をもって主質とした木村名人に勝てなかったという事実が、よくこれを物語っている。
ここで花田八段について触れてしまうが、この人は自分の持前を大胆に振舞えば速度の将棋をもっと前進させたと思う。惜しいかな、分析癖というか中途の枝葉に引っかかったために駒組の革命を打出すエネルギーを殺したらしい。
スピードを主にした新らしい眼で駒組を再編成すること――この要求は必然に起ってきた。
戦争末期に小堀流のコシカケ銀が台頭したのもこの時代であり、その教師が時の新鋭棋士坂口八段であることもうなずけてくる。新鋭坂口八段、小堀八段も実は一人の創始ではなく、新時代の訪れに呼応せんとする一群の胎動をバックとしたものなのである。
しかしこの新人等の打出す新手法も、試みの程度で断片的な新鮮さにすぎなかった。総合する組織者がいなかったのである。いや、あったのである。関西にあってこの関東の新らしい手法を驚くべき能力で体系を与えてしまう天才升田があったのである。それは新らしいものに乗るという技術的なものではなく、逆に升田の本来的なスピード眼を以って統一したというべきものである。
これで昭和前期を代表する木村名人は打倒されたのであるから、歴史の必然的な流れと私はみるのである。(「近代将棋」第九巻十号(昭和33年10月))

升田をこう評価する金子金五郎について升田幸三は、「金子さんが完成できなかったことをめざしたのが私の将棋」とのちに語っている。金子と升田は一本の筋でつながっている。

われわれの先輩では金子さんや花田さんは、特に序盤に注意を払った人である。金子さんの序盤戦術は、押しに押しては優位な序盤をつくるというのではなく、何か人生の懊悩をえがき出したような味わいがあった。相手にやらせながら自分も進む。一歩下がって二歩進む、という構成の仕方である。もう少し力とか野性味があれば、近代将棋の理想的な序盤戦術を編み出すことができたに違いない。金子さんが完成できなかったことをめざしたのが私の将棋ではないかと思う。(「升田将棋選集」第一巻)