「勝ち続ける力」(羽生善治+柳瀬尚紀)

本書の発売と同時に一読はしたのだが、某誌より書評依頼があり(掲載時に改めてお知らせします)、ここ数日精読していた。対話者・柳瀬尚紀さんが20年に及ぶ親交によって築いてきた羽生さんとの信頼関係ゆえに、羽生さんの新しい言葉にたくさん出合うことができる一冊に仕上がっている。

勝ち続ける力

勝ち続ける力

僕は2008年6月の棋聖戦第一局(対佐藤)と10月の竜王戦第一局(対渡辺)と2009年6月の棋聖戦第一局(対木村)を観戦したわけだが、柳瀬さんは9月の王座戦第三局(対木村)と11月の竜王戦第二局(対渡辺)を観戦している。羽生さんとの対談も、ほぼ同じ時期に行われた。「将棋の価値の大きさ、羽生名人のすごさを対談という形で世に翻訳しようという妙な使命感をつい持ってしまう」と語る柳瀬さんの使命感には僕も深く共感するわけで、志向性も似ている。そんなこともあって本書は、ことさら個人的にも、非常に興味深く読んだ。「シリコンバレーから将棋を観る」で示した僕自身の羽生解釈、対局観戦によって抱いた印象が、柳瀬さんのそれとどう共通するか、どう違うかを確認しながら読む読書は本当に楽しかった。たとえば、

羽生さんが木村一基さんと対戦した王座戦の第三局(〇八年)を観戦していて、ちょうど昼食休憩の後に入室しました。動作に気をつけながらお茶をすすったんですが、緊張しすぎているせいか、むせてしまって咳がどうにも止まらなくなったんです。木村さんは、優しい人だから、『大丈夫ですか?』と声をかけてくれた。ところが、羽生さんはじっと黙ったまま、何ともいえない珍妙な動物を見るような目つきで、なぜこんなことが起こっているのかと、ただただ怪訝そうにこちらを見ているんです。あの表情は忘れられません。柳瀬がいる、とよくわかっているはずなのに・・・(p96)

というところ。木村さんの優しさはさもありなん、という感じだが、それ以上に、羽生さんの「何ともいえない珍妙な動物を見るような目つき」「なぜこんなことが起こっているのかと、ただただ怪訝そうにこちらを見ているんです。あの表情」というのは、まさに羽生さんの対局中に集中している姿を表現した至言だ。僕も何度も同じ事を感じた。
本書の対談は、竜王戦開始の直前(2008年10月3日)、竜王戦終了の直後(2009年12月20日)、そして今年の王将戦のさなか(2009年1月31日)の三回にわたって行われている。当然のことながら、将棋の話となれば、渡辺明竜王との竜王戦激闘七番勝負が話題の中心になる。
そして本書を読んで改めて思ったのは、この七番勝負を通じて、羽生さんは渡辺さんのことを本当に高く評価したのだということ。それが、ものすごくよく伝わってくる。
特に柳瀬さんが観戦した竜王戦第二局の渡辺さんの敗着△8三桂について、羽生さんが大絶賛している下りが圧巻なのであった。しかも語られたのは第七局で敗れた直後の対談二回目だ。

渡辺さんは、王様から五マスも離れた場所に桂を打ったんです。しかし、その手は実は、十五手先くらいに受けに効いてきます。部分的には角取りに打った攻めの一手ですが、ほんとうは、すごい攻防の一着でした。攻守どちらか一方だけが狙いの手ならば、あまり驚いたりしませんが、8三という離れた場所に打った桂が、手順が進んでゆくとこんなに効いてくるのか、という状況だったんです。普通では考えられないような状況が、実戦の中で現われたんですよ。(p104)

羽生さんはこの言葉に続けて、興奮さめやらずという感じで、将棋の深淵について本書で語り続ける。対局を観戦していた柳瀬さんは、△8三桂が指されたあと、羽生さんが笑みをもらし、心から嬉しそうにしている姿を記憶にとどめている。先日の棋聖戦ウェブ観戦記でも書いたが、羽生さんは対局中に一人でニコニコしていることがあるのだ(局後、ニコニコしている理由を観戦記者の小暮さんが尋ねても羽生さんは記憶になかった。無意識でニコニコしているのだろう)。

あの△8三桂は、ほんとうにつくったような手順なんです。たとえば、一つの変化として、渡辺さんの玉が2九まで行って最後に詰む筋があります。3二に玉があったわけですが、そこからずっと盤をぐるりと回って王様が2九のつけ根まで行き、2八龍で詰むという変化です。8三桂は、そういう詰め手順を防いでいるんです。だから、すごい一手ですし、渡辺さんは当然、その手順まで読んで指しているんです。対局している同士ならばどこまで読んでいるかがわかりますし、ああ、やっぱりここまで考えているからこういう手を指せたのか、と思うわけです。(p107)

こう羽生さんは絶賛するわけだが、柳瀬さんは次の対談までに渡辺さんと連絡を取り、本当にそこまで考えていたのかを取材する。
そのあとのやり取りが面白い。

(柳瀬) ・・・渡辺竜王にも「そこまで読んでいるというのは、すごいものですね」と訊いてみたんです。すると、竜王は一瞬ぽかんとしまして、「ああ、そういえば感想戦でちらっと出たかもしれませんが、全然読んでいませんでした」という答えが返ってきましてね。
(羽生) ああ、そうですか。
(柳瀬) 渡辺竜王も羽生名人の読み筋に驚いていたわけです。で、僕が「これ、名人に話していいですか」といったら、「ええ、いいです、事実ですから」と。
(羽生) この話はたぶんものすごく注釈が必要ですが、渡辺さんは読んでないけど危機は察知していたはずなんです。そうでなければ、8三桂という手は指さないわけですから、具体的な手順として頭の中に浮かんでいたかどうかは別として、この手をやっておかないと危ない、と思っていたのはまちがいのないところだと思います。(中略) ただ、私も、渡辺さんが2九まで玉がゆく詰み手順を読んでいなかったと聞いて、ちょっとほっとしました(笑)。(p176-177)

何と面白い対話だろう。この対話で羽生さんは、このこと(8三桂の意味)が「将棋世界」誌でも触れられていないことに言及していた。たしかに橋本七段の「将棋世界」誌観戦記では、

だが、渡辺は諦めていなかった。7分の短考で中空にねじ込むように、△8三桂の鬼手を放つ。この手は一体何だ?
△8三桂に歓声が上がった控室だったが、すぐにこの手は渡辺のポカと断定した。(将棋世界2009年1月号)

としか書かれていない。対局者の脳内にしか残っていない一局の将棋の深淵を垣間見ることのできる話である。