米長邦雄の現代将棋論: 不動駒と「ピストルの撃ち合いのごとき将棋」

書評を寄稿した関係で「週刊現代」最新号の米長邦雄・将棋コラムを読む機会を得た。ホームページ「米長邦雄の家」の「将棋の話」でも、「どうも近頃の将棋は分からないことが多いです。」で始まり「矢倉は純文学と言った棋士も居ました。今では死語というか、まったく別次元の話のようです。将棋は難しいものですね。しかし現代ほどアマチュアの指す将棋とプロが指す戦型がかけ離れた時代はないでしょう。」と締めくくられる「将棋の進化」というタイトルの文章が、つい最近書かれていた。その中で、今期の名人戦についても

今期の名人戦。第五局が終ったところですが、私の感覚では分からないことが多い。アマチュア初段が指しているように見えますが、それでいて「さすが」と唸る手が飛び出すからプロは恐ろしい。(将棋の進化)

と言及があるが「週刊現代」コラムでは、さらにそこが詳述されている。

今シリーズを振り返ってみると、アマチュア初段同士が指しているのではないかと思うような戦型が散見されたのが大きな特徴である。私が現役の頃、あるいは大山康晴升田幸三の頃は、敵味方20枚ずつの駒が動くのを、熱局、名局と感じていた。
ところが昨今はピストルの撃ち合いのごとき将棋が出現して、半分もの駒が動かないというケースがある。勿論、初心者が飛車だけ動かすのとはまったく違うが、一局面を見ただけではとてもプロ同士とは思えない対局がみられる。今回の名人戦もそうだった。・・・・・
出だしの第一、第二局が矢倉の四つ相撲。三、四、五局がピストルの撃ち合い。そして六、七局が再び四つ相撲となった。(週刊現代)

羽生が繰り返し語るように、「現代将棋」は始まったばかりの局面から緊張感に溢れ、すぐに激しい戦いが始まることも多い。米長が言う、自分が「現役の頃」の価値観とは、「敵味方20枚ずつの駒が動くのを、熱局、名局」とするもので、そういう熱局、名局を作る準備のために序盤というものは存在する(矢倉は純文学という言葉も、そういう価値観が表現されたもの)という考え方であろう。そんな序盤の予定調和を廃すところから「現代将棋」の扉が開かれたわけであるが、果たしてその結果出現した「現代将棋」を一局単位で眺めたときに、昔に比べて、より魅力的なものとなっているのだろうか(アマチュアの指す将棋との近さという価値も含め)、と米長は問うている。
名人戦第三局と第五局は横歩取り、第四局は相がかり戦だが、これら三局について、「アマチュア初段が指しているように見え」る、「一局面を見ただけではとてもプロ同士とは思えない」、「ピストルの撃ち合いのごとき将棋」だと、米長は評し、「近頃の将棋は分からない」とつぶやく。

第五局は羽生らしからぬ完敗であった。郷田の研究範囲の中に飛び込んで、不動駒が13枚もあった。(週刊現代)

と、「敵味方20枚ずつの駒が動くのを、熱局、名局」という価値観に基づいて、不動駒の多さへの言及がある。序盤を一手一手、前へ前へとさかのぼって研究していく「現代将棋」とは、初期局面(つまり不動駒ばかりの局面)に近づきながら新しい発想を試していくものであるから、結果として不動駒が多い将棋が生まれてしまう可能性も高くなる。しかし、そういうリスクも取りながら生まれる、去年の竜王戦第七局のような「歴史に残る名局」もある。そんな「将棋の進化の物語」の全体が、いまとてもホットで、最高に面白いと思う。