歴史記述、情勢分析、一局の将棋、感想戦、観戦記、なぜ将棋に惹かれるのか

われわれの記憶の容量は無限ではなく、過去の一瞬一瞬における文脈と、それぞれの時点で潜在的に存在した選択肢を記憶していることは不可能である。過去を振り返るには、現在の地点で判明している帰結から遡って脈絡を見出し、筋道を立てていくしかない。歴史記述とは結局この合理化の作業だろう。
しかしそれによって、肝心なことを忘れてしまいがちである。それは、いつの時点でも、将来はわからなかった、という当たり前の事実である。歴史上のどの時点も、過去の数知れぬ経緯の上にあり、未来に無限の可能性を秘めている。すべての当事者が、どの可能性がより蓋然性が高いかを全知全能を挙げて判断し、その結果として一つの現実が生じる。あとから見れば必然的で、定まっているように見える道筋も、その時点では誰も確かに予想できなかったのである。分からないからこそ、情勢を判断し将来を見通す営為に意味がある。その緊張感と臨場感こそ、本書で示したいことである。

これは池内恵氏の近著「中東 危機の震源を読む」(新潮社)からの引用(p346-7)である。本書は月刊誌「フォーサイト」誌の長期連載が書籍化されたもので、この文章はその「むすびに」として、最近書かれたものの一部だ。
私が「フォーサイト」誌に「シリコンバレーからの手紙」という連載を始めたのは1996年のことで、それから長く私が連載執筆陣の中で最年少だった。シリコンバレーという若い土地のことを書くゆえ、若かった私でも務まったからだった。
そして1973年生まれの池内さんが「中東 危機の震源を読む」という連載を2004年に同誌にスタートしたとき、彼が私に代わって最年少になったわけだが、中東という深く歴史ある大きな世界の情勢分析を31歳の気鋭が描くのかと、驚嘆したのをよく覚えている。そして以来、中東とシリコンバレーと対象はまったく異なるけれど、「情勢を判断し将来を見通す営為」を、私も私なりにこの地で続けているゆえ、池内さんの大きな才能に驚きつつ、毎号、強い刺激を受けてきた。
そして冒頭に引用した文章を読んで、自分がなぜ将棋に(特に将棋を観ること、読むこと、書くことに)惹かれてやまないのか、「将棋を観る」ことがなぜ自分の仕事の触媒たり得るのか、について、私は啓示を受けたような気がした。なぜなら、彼が語る彼の仕事(それは私の仕事にも少し似ている)についての文章は、私自身が仕事について考え続けてきたことととても近い上、そのまま一局の将棋について語る文章へと転ずることもできるからだ。

われわれの記憶の容量は無限ではなく、一局の将棋の一手一手における文脈と、それぞれの局面で潜在的に存在した選択肢を記憶していることは不可能である。一局を振り返るには、終局の地点で判明している帰結から遡って脈絡を見出し、筋道を立てていくしかない。将棋記述とは結局この合理化の作業だろう。
しかしそれによって、肝心なことを忘れてしまいがちである。それは、いつの時点でも、将来はわからなかった、という当たり前の事実である。一局の将棋のどの時点も、その局面に至る数知れぬ経緯の上にあり、未来に無限の可能性を秘めている。二人の対局者が、どの可能性がより蓋然性が高いかを全知全能を挙げて判断し、その結果として一つの現実の局面が生じる。あとから見れば必然的で、定まっているように見える道筋も、その時点では誰も確かに予想できなかったのである。分からないからこそ、情勢を判断し将来を見通す営為に意味がある。その緊張感と臨場感こそ、本書で示したいことである。

これは冒頭の文章にほんのわずかの改変を加えて将棋用にしたものだが、一局の将棋の推移を克明に語り尽くした本が仮にあるとして、その本の「むすびに」にこんなことが書かれていても、きっと誰も驚かないだろう。そのくらい歴史記述と将棋記述の在りようは似ており、情勢分析・判断と局面研究・指し手の関係は、構造的に酷似しているのだ。
いくつかの超一流の将棋対局に立ち会い、感想戦を傍らで眺め、観戦記を書いたり読んだりするなかで私が感じてきた将棋の魅力の深淵そのものが、まさに池内さんの自著を締めくくる文章の中にあらわれていたのである。
いま私は、この発見からとても大きな示唆と、将棋や自分の仕事について考えていく上での重要な素材を得た気がしている。

中東 危機の震源を読む (新潮選書)

中東 危機の震源を読む (新潮選書)