1995年は遥か昔になりにけり: 井口昭夫の羽生批判をめぐって

1992年8月の甲子園。明徳義塾は星稜の四番打者・松井秀喜に対して五打席連続敬遠作戦をとり、松井は一度もバットを振ることなく星稜は敗退した。詳しくはここを参照されたいが、この事件の反響は大きく、明徳義塾に批判が集まって大事件になった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%A7%80%E5%96%9C5%E6%89%93%E5%B8%AD%E9%80%A3%E7%B6%9A%E6%95%AC%E9%81%A0
その3年後の1995年と言えば、阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件の年だが、14年前になる。野茂がメジャーリーグデビューを果たし、インターネット元年とも呼ぶべき年だ。僕にとっては1994年に渡米して最初の年だったこともあり、様々な出来事が個人的ないろいろな記憶と重なりあって、遥か昔のようにも、ついこの間のようにも思える、そんな年だ。
日本に住んでいた最後に観た名人戦は、1994年の米長邦雄羽生善治が挑戦した名人戦だった(詳しくは「シリコンパレーから将棋を観る」第五章)。そして翌1995年の名人戦は羽生名人の初防衛戦。挑戦者に森下卓八段を迎え、3勝1敗と森下を追い込んだ第五局、先手羽生名人は、▲7六歩△8四歩に▲2六歩と突いた。
そしてそれを、観戦記者・井口昭夫はこう激しく批判したのだった。

(羽生の) 頭の中は恐らくこれまでの四局を振り返っているのだろう。そして出した結論は? 三手目▲2六歩でやはり矢倉を避けた。甲子園で四球攻めにあった松井。

羽生の三手目▲2六歩は、その三年前に大批判を受けた「明徳義塾松井秀喜五打席連続敬遠作戦」と同等の扱いを受けたのだ。しかも主催紙・毎日新聞の観戦記というオフィシャルな場で。森下得意の矢倉を受けないのと、五打席連続敬遠作戦は全く異質のものである。2009年のいま、現代の将棋ファンの誰もが、信じられないという思いを抱くのではなかろうか。

井口昭夫将棋観戦記選集 上

井口昭夫将棋観戦記選集 上

その観戦記が、つい最近出版されたこの本に転載された。今年に入って書かれた河口俊彦七段の本書解説には、

またまた今の棋士は、という言い方になるが、昨今の将棋は、大ポカが少ない代りにど肝を抜くような手も出ない。人真似とか調べ済みといった手ばかり指しているから、見る者に感動を与えることができない。時代が変り、棋士気質も変った、と嘆いて済む問題ではないと思うのだが。

とある。河口氏は相変わらず昔の将棋界のほうが良かったと書き、井口観戦記を全肯定するわけだが、そういうことも含め、15年前の若き羽生善治がいったい将棋界の何と戦っていたのか、そして彼がその戦いに勝ち、この15年で将棋界をどう変えたのか、それが、この三手目▲2六歩への井口の批判を、現代将棋の視点から眺めるとよくわかる。
改めてこういうものを読むと、羽生の「つい最近まで盤上に自由がなかった」という声(「シリコンバレーから将棋を観る」第一章)が聞こえてきて、そして羽生の感覚では「つい最近」の1995年は、井口の羽生批判が異様なものに見える(三手目▲2六歩は普通の作戦の選択肢で批判の対象などになりようがない)現在からすると「遥か昔になりにけり」だなあ、と感慨深く思うのである。