金子金五郎語録(9)
盤面を見ているうちに、二通りか三通りかの<手>が目に映ってくる。ほとんど同時にである。そしてそのうちの一ツをえらぶ。えらぶ理由があるから選んだというのでもない。・・・だが、不思儀にも読んでみると、その手はちゃんと目的を成立させてくれる出発点となっているものだ。・・・
それから、七、八才の子供でいながら、将棋に特別の才能を有する例であるが、着手にあたって考えることをしない。大人のするように、論理の操作ということはない。それでいて、ちゃんと手はマトを射っている。これはつまり、目的を立てないで指した手であるが、目的を持っているということと考えられないだろうか。
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手とは何等かの"意味"を持って、われわれの目に映っているのだと思う。ただ、それを意識することができないというだけではないだろうか・・・・・
さて、常識では手を読んで行くうちに形ち(目的)が成立するとし、故に、たとえ形と手とは一つのものとしてツナガッテいるとしても、形ちは全体、手はそれを構成する「個」としての全体を成す部分という関係が考えられる。私としても、そこから常に将棋論や、棋士論を出発させていたのである。しかし、よく考えると、それには無理があるように思える。というより、その形と手の一体というところより、もう一つ奥のほうに「何かが」あるというように考えられてきたのである。
本当は、対局者の心のうちに手が先で形ちがアトからでるのでもなければ、またまず形ちという基盤があって、そこから手が直感されてくるのでもない。しいて名付ければ、将棋像というものが対局者の中に結実されていて、そこから現実の将棋の方向が指示されてくるのである。われわれが理性的に将棋を操作するということが始まるのは、その指示を受けてからのことに属する、と思いたい。
将棋に天才があって、七、八才の少年が指す手が論理を用いないのに、おのずと将棋の論理を構成しているという事実は、将棋像の問題として考えれば、謎が解けてくる。将棋像の中に将棋の論理が含まれているから、そこから発した着手には(子供が無邪気に指した手でも)すでに論理がふくまれていると考えられてくる。
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まず将棋像から将棋の感覚が発生し、それから理性的に手を考える段階に入る。しかし、その理性的な操作の仕方が、形ちを表象としても手に達する場合もあり、また形ちを手として表象し、そこから形ち(目的)づける場合もある。
だから根元は一つなのである。一つだから、フト意識された"手"であっても、"形"を自ら持っているということになる。将棋が主体的な論理で指されたり、個性的でなければ勝てない理由も将棋像から来ている。(近代将棋第十五巻三号(昭和39年3月号))