棋聖戦ウェブ観戦記を補足する(3) 勝利を確信するとき

羽生棋聖は、新潟での棋聖戦第一局終局後のコメントで、こう語った。
「△4四銀(138手目)と上がって、行けるかなと思いました」(http://sankei.jp.msn.com/culture/shogi/090609/shg0906091932010-n1.htm)
この将棋は142手で終局しているから、最終手の二手前である。昨年の竜王戦第一局(パリ)のときも、
「渡辺竜王が投了する前の数手、「△6七銀で勝利を確信した」と対局後に語った羽生名人のそれから三手の指し手は、最後までふるえることはなかった。」(http://kifulog.shogi.or.jp/ryuou/2008/10/13-8632.html)
と書いたように、羽生さんが語る「勝利を確信したとき」とは、いつも本当に最後の最後のことだ。
『何て言うんでしょうかね、直線的に行って、わかりやすければそれに越したことはないんですけど、将棋って、最後の最後に何かがあるということが、本当にすごく多い。ここで一直線に攻め合いに行けそうだと思っても、最後に何か落とし穴があるんです(笑)。』(「シリコンバレーから将棋を観る」p246)
という言葉と呼応するわけだが、「最後の最後に何かがある」かもしれない、「最後に何か落とし穴がある」のではないか、と局面の良さを疑い続けて、終局の間際までたどり着くのであろう。
僕はウェブ観戦記を書くときも、終局の二時間くらい前からはずっと、対局室の中で対局者二人を見つめることにしている。そこで起きていることだけは、他の誰にも経験できないことだからだ。
観戦記(8)を午後5時にアップして対局室に入り、感想戦が終わった午後9時までは中にいて(終局は7時半)、観戦記(9)を午後9時半にアップしたわけで、その間のことは詳しく書ききれていない。
このたびの棋聖戦の最後の二時間余について、今になってどうしても伝えたいと思うことが一つある。
それは午後6時25分頃、木村さんが▲9三歩成と指し、羽生さんが104手目を考慮しているときのことだ。両者持ち時間はもう切迫していて、ゆっくりと時間を使うことはできない場面。
▲9三歩成が指されて数分後に、「あっ」と声にならぬような声が発せられて、羽生さんの体がぴくんとして、そして背筋がまっすぐに伸びあがった。そして羽生さんの顔は苦悶の表情に変わったのだ。そう、その様子は、去年の名人戦第三局で致命的な読み落としに気づいたときの森内名人(当時)の姿とまるで同じだった。
「何か大きな誤算があったのだろうか(?)。森内は指したあとで。でも羽生は指す前に(?)」
と僕はノートにメモした。
終局後すぐに、木村さんは「▲9三歩成(103手目)がどうだったか…」(http://sankei.jp.msn.com/culture/shogi/090609/shg0906091932010-n1.htm)と語ったが、当然指したときにはさまざまな狙いを秘めて「これが最善」と信じて指している。羽生さんはその▲9三歩成が指されたとき、木村さんの狙いの可能性空間における何かを見落としていて、考慮中にそれを発見してああいうしぐさになったに違いない、と思った。両対局者によって語られてはいないけれど、この▲9三歩成は、羽生さんがその「何か」を発見しなければ、逆転につながったはずの木村さんの勝負手だったのではなかろうか。だからこそ木村さんは終局後真っ先に、「▲9三歩成(103手目)がどうだったか…」と言ったのではないだろうか。この将棋は「木村挑戦者の▲9三歩成が悪手でそこから形勢が羽生に傾いた」と総括されてしまうわけだが、実際のところその手の周辺における二人の戦いの中では、何かまったく違うことが起き、その中身は両対局者だけが知り、そういうギリギリのところでのやり取りによって、棋士同士の信頼関係が築かれていくのではないか。僕は終局後にずっとそんなことを考えていたのだった。
ほどなくして△9五角(104手目)が指されてから、羽生さんが勝利を確信したという△4四銀(138手目)まで、さらに30手以上の攻防が続いた。△4四銀の時点で、木村さんの残り時間は2分、羽生さんの残り時間は3分だった。
去年の観戦記でも「孤高の脳」と評したので、今年は書かなかったのだが、やっぱり今年も対局室の中で感じ続けていたのは「孤高の脳」ということだった。
『孤高の脳。
 2人の対局姿を観ながら、私はそんな言葉を思った。
 控室に陣取る渡辺竜王は、以前自らのブログ(渡辺明ブログ、2008年3月28日)でこんなことを書いていた。
《タイトル戦を見て、これはいい手、これは悪い手、あーだこうだと言うのは楽しいのですが、集中度、真剣度が違う対局者の読みに勝てないことはわかっているので、虚しさも感じます。「負ける」という恐怖がある対局時と、気楽な観戦時では考える手や、感じ方が全然違ってくるので、仮に実戦より優る手を見つけたところで、あまり意味を持ちません。》
 対局室と控室を行ったり来たりしていると、自らの脳だけを信じ、衆人環視のなか苦吟する、両対局者の「孤高の脳」にあらためて感動を覚える。(「シリコンバレーから将棋を観る」p75-76)』