棋聖戦ウェブ観戦記を補足する(2) 割れる大局観

棋聖戦第一局で最大の見どころは、トッププロたちの大局観がこの将棋をめぐって真っ二つに割れたことだった。
(7) 揺れ動く局面、割れる大局観、そして膠着状態か
http://kifulog.shogi.or.jp/kisei/2009/06/7-0962.html
だけでは、その面白さ、興奮が十分に伝えられなかったような気がするので、ここで棋譜コメントも参照しながら補足したい。
手羽棋聖が急戦矢倉の構えから急戦に出ずに玉を固めていった場面(穴熊に組む前)について、ネット中継解説者の深浦王位は「本局の現局面から言えば、羽生さんとしては理想的な手順を指している」と評した。そして自宅でネット観戦する渡辺竜王からはこんなメールが届いて、棋譜コメントとして公開された。

現在50手目△1一玉の局面まで見ています。48手目の棋譜コメントには笑いました。藤井さんありがとうございます。この穴熊への組み換えは▲4五桂に△2二銀を用意してピッタリで、僕以外の棋士でもこれが第一感だと思いますけどね(笑)
梅田望夫観戦記6』にあるように、現局面は後手持ちです。廃れて欲しくないので、この戦型は後手に肩入れして見ることが多いのですが、それを差し引いても後手持ち。
深浦王位も言っていますが、先手の指し方はいかにも木村流で、△5三銀右急戦に対して、この局面を目指す人は少ないのでは。現局面、後手は暴れれば良いのに対して、先手は丁寧な指し口が求められます。それを木村八段がどう実践していくのかが見所です」(14時27分、自宅観戦の渡辺竜王からのメール)

「48手目の棋譜コメント」とは、

48 1二香(11)
「あっ!出ました渡辺明。でもこれは随分と思い切った手ですよ」(藤井九段)

のことである。つまり、深浦王位と渡辺竜王は、かなりの自信を持って、後手良しと言い切っていた。
しかし藤井九段の見解はまったく違った。藤井さんは先手良しと大盤解説会で断言して戻って来たのだった。それが、観戦記(7)の場面だった。
言葉で十分に伝えきれなかったなと今思うのは「藤井さんの本気」だった。観戦記(7)では、次のように書いた。

「勝敗は置いておくとして、模様だけなら先手がいいですね。でも、穴熊は勝敗にこだわる戦型だからね」「渡辺君は穴熊が本当に好きなんだねえ」「羽生さんはここは難しいと思ってました、ってあとで絶対に言うよ」とは、藤井九段。
 そして、「後手がいいって、具体的に何がいいのか言ってくださいよ」と藤井九段が言い、深浦王位、青野九段を交えて、羽生棋聖穴熊を完成させた64手目の局面から、検討に熱が入ってきた。

藤井さんは軽妙な語り口でファンを魅了する人なので「後手がいいって、具体的に何がいいのか言ってくださいよ」という言葉が、ファン・サービスのために盛り上げる軽妙な言葉のように受け止められてしまったかもしれないが、実際には、藤井さんの口調はかなり強く、後手良しを主張する深浦さんに真剣勝負を挑んだという雰囲気だった。「穴熊は堅い」という理念はいいから、具体的な手順でその良さを示せよと。それで藤井さんを中心に盤に向かっての真摯な検討が行われた。その検討とともに、対局室の指し手も進んでいくから、後日の研究とは趣は異にするだろうが、どうも藤井さんの言っていることが正しい、というような雰囲気に控え室はなってきた。
そのあたりの様子は、棋譜コメント71手目にこんなふうに描かれている。

71 3五歩(36)
「行った!新しい木村一基。生まれ変わった!」(藤井九段)
この▲3五歩は、藤井九段が大盤解説で指摘していた手だという。変化の一例は、△同銀▲同角△同歩▲3三歩△同桂▲同桂成△同銀▲2五桂△2二銀▲1三桂成△同銀▲1四歩△2二銀▲1三銀のガジガジ攻め。
「もう穴熊じゃない。後手の飛車角がどこにも利いてなくて、ひどい形なんです」(藤井九段)
後手持ちと言っていた深浦王位も、藤井九段の熱気に押されてか「自信がなくなってきました」。
が、しかし。「検討が進み、いい勝負になりました」と藤井九段。△3五同銀に▲同角△同歩▲3三歩は、「△3三同銀が好手。以下▲同桂成△同金▲1四歩△同歩▲同香△同香▲3四銀△同金▲2三飛成で一見決まりそうですが、△1二角で受け切り。したがって△3五同銀に▲5七角△4四銀▲7五歩のような展開で、いい勝負です」。
【藤井九段のため息】
「検討での形勢判断は揺れ動くものです。さっきはそうだったけど、今はこうという具合。はぁ、最善は名前を伏せてもらうか、継ぎ盤に近づかないか。そのどちらかです」と藤井九段。
しかししかし、数分後に「わかったぞ!絶品を見つけた!」と再び藤井九段。「えー、△3五同銀の瞬間に▲3三歩が絶品チーズバーガーです。△同桂なら▲3五角△同歩に▲5三桂成か▲3三桂成。△同銀は▲同桂成△同金と決めてから角を逃げておけばいいのです」。
「なるほど。やはり藤井さんの言うとおりでしたね」(深浦王位)
「ええ、紆余曲折ありましたが。どうも感性が先走ってしまったようです」(藤井九段)
梅田望夫観戦記】 15時30分、「(7)揺れ動く局面、割れる大局観、そして膠着状態か」が更新されました。

ウェブ観戦記では書ききれなかったのだが、藤井さんと一緒に研究していた深浦さんは、その過程について「穴熊にしたところまでは後手良しだが、△8四飛(52手目)が良くない(△8二飛のほうがいい)ために、検討する変化で先手が良くなってしまうような気がする」と言っていた。
感想戦が終わり、両対局者も含めた大局観の割れ方をまとめると次のようになる。

  • 羽生棋聖: 駒が偏り過ぎて、攻め味がなくなって、作戦負けだった。仕掛けられてダメでしょう。先手の銀二枚のおかげで動けなくなってしまった。やる手がなくなってしまって、囲いに行くのではだめ。(ずっと先手が良い)
  • 木村八段: ▲6八角で十分やれそうだと思ったし、序盤もまずまずだったのに、そのあと乱れてしまった。(つまり、▲6八角の局面までは先手が良い)
  • 藤井九段: ずっと先手が良い。▲6八角の直後の▲4五銀(79手目)ではなく、http://kifulog.shogi.or.jp/kisei/2009/06/post-19f4.html に書かれている「79手目▲4五銀(上図)に代えて、▲2五桂△2四銀上▲1三桂成△同銀▲4五銀という藤井九段の指摘」の通りに推移すれば先手の完勝だった。(両対局者この手順には全く気付いておらず、指摘に納得)
  • 深浦王位: 穴熊にすることについてはそこまで悪いと思わない、その直後の△8四飛が△8二飛なら穴熊の陣形も堂々として十分だったと思う。(△8二飛以降は羽生さんと違う指し方になったのであろう)
  • 渡辺竜王: 50手目△1一玉の局面では後手良し。後手は暴れれば良いのに対して、先手は丁寧な指し口が求められるから。(△1一玉以降は羽生さんと違う指し方になったのであろう)

というものだった。
一局の将棋の推移をめぐってのトッププロの大局観というのは本当に興味が尽きないテーマだが、傍らで見ていた素人の感想を付記すれば、藤井さんが冴えわたっていたという印象が鮮やかである。控室の誰が発したコメントだかは定かではないのだが、

穴熊を上からつぶすことに関しては、藤井さんの技術が圧倒的に抜きん出ているから・・・

という声が、記憶に残っている。そしてひそかに、自分は悪いと言い続けていた羽生さんの大局観は、藤井さんのそれとぴったり一致してもいたのだった。
観戦記(1)で、

棋譜中継のコメント入力は「烏」こと後藤元気(ごとげん)さん。(中略) 今日、僕がこれから書くウェブ観戦記は、棋譜中継の彼のコメント欄の充実と一緒になって一つの成果になる、そんな性質のものと思っていただきたい。

と書いたが、ごとげんと二人で、第一局の「割れる大局観」についての面白さを、リアルタイムという制約の中にありながら、かなり正確に伝えることができたように思う。
棋譜中継のコメントは、ウェブ観戦記の有無にかかわらず、それで一つの作品である。今回の棋聖戦第一局の場合、「棋譜保存」からテキストを抽出してプリントアウトしてみるとわかるが、A4で20枚のボリュームがある大作だ。
今はまだ将棋のネット中継も試行錯誤の段階にあり、棋譜中継のコメント執筆という「新しい仕事」、中継コメント執筆者という「新しい職業」の価値が定まっていない。しかし、いずれその価値を(読者も含め)誰もが理解・納得し、価値相応の報酬が得られる「新しい職業」へと進化させていく必要がある。