「先駆者発掘の道具」としてのGoogle

昨日勝又清和六段とtwitterで話した内容をアップしたが、現代将棋のさまざまな新しい形のルーツをたどる研究をする勝又さんは「どの戦法を調べてもそこには必ず「羽生」の名前が」とつぶやいていた。
羽生は、新刊(柳瀬尚紀との共著)「勝ち続ける力」の冒頭でこんなことを言っている。

将棋の世界に升田幸三先生という人がいます。昭和三〇年代に大活躍をした棋士ですが、その先生の棋譜を見てあまりに現代的なスピード感、センスがいたる所に表われていて本当に驚きました。
三十年か四十年は先を歩いていたのではないかと思います。(中略)
私が升田先生が時代を先取りしていたと気がついたのは、棋譜のデータベースが出来てからでした。
ジョイスにしても升田先生にしても、先駆者として真の意味で理解をされず孤独を味わうのは先駆者としての宿命なのかもしれません。しかし、データが充実して行く中で必ず理解される時が来るのは必然のような気もしています。
昨今のGoogleに代表されるような情報、知識の蓄積はそれに加速度をつけ、発掘をするように先駆者を見つけることができるようになるかもしれません。
また、それに対してどのように向き合い、対処をして行くか考えさせられてしまいます。(p3-4)

なるほど、天才・羽生には、Googleは「孤独な先駆者を発掘するための道具」に見えるのである。

羽生は升田と棋風こそ異なれど、同時代に比べ、同じように「先を行き過ぎて」いる人なのに違いない。そんなある種の孤独の中で、勝負の勝ち負けは「無味乾燥な世界」で「砂漠の世界」に過ぎないと羽生は考えるようになり、「相手でも自分でも、どちらかが悪い手を指すと、もっとすごいものを作り出せそうなチャンスがなくなってしま」うと嘆ずる、真理の探究を第一義とする人になっていった。
 そして羽生は、「三十年ぐらい先を行っていた」手をせっかく升田が指しても、同時代の棋士たちが「平凡な応接を」したために「もっとすごいもの」を作る機会を逸して気の毒だったと、升田に対して同情の気持ちを抱いている。「未開の荒野を開拓していくような気持ちだったとしても、周りに誰もいなければ方向性を定めるのがとても難しかったのではないか」と、升田の孤独な心境を忖度してもいる。
 将棋とは「他力本願的なところがある」「一人で完成させるのではなく、制約のある中でベストを尽くして他者に委ねる。そういうものだ」とも語る羽生の諦観をはらんだ将棋観は、先駆者・升田幸三と同じ孤独を味わった果てに到達した境地なのだろう。

と僕は、「シリコンバレーから将棋を観る」のあとがき(p285)で書いた。
羽生の「データが充実して行く中で必ず理解される時が来るのは必然」という言葉は、羽生論をこれから書くはずの同時代を生きる発掘者・勝又に、未来の発掘者をも意識した競争をせよ、という羽生のメッセージとしても読むことができる。